学校が性役割意識を生んでいるのか?(差別について,後編)

こんにちは、いったです。

 

ジェンダーという言葉をよく聞くようになって久しいですが、性について悩む人は昔からいました。

 

しかしこうした言葉が流布しないうちは、性別による差があって当然だというような意識がはびこっていたことがあります。

 

今回は、このような性差についての意識は学校が作ったのか?という話です。

 

小学校の先生の性別への意識

今回参考にした論文は約30年前のものですが、その時点ですでに大方の先生は個人主義を主張していました。

 

男だからこう、女だからこうという意識はおかしいという変革の兆しはあったようです。

 

しかし、実際には「男の子はうるさいから」や「女の子のほうがおとなしい」など、性別カテゴリーでまとめたような発言も見られたようです。もちろん、個人主義を掲げていた先生もです。

 

ではなぜ性別カテゴリーを意識してしまうのでしょうか。

 

便宜としての性別

学校という場では、班分けや背の順、番号順といった便宜的に利用される分け方のもとのようなものがいくつかあります。

 

しかし、特に小学校の低学年の児童たちは、目で見てぱっとで分かるものでないと行動が難しいことがあります。

 

そんな時、「男の子は左、女の子は右でーす」と声をかけると動きやすいという共通認識があるようです。

 

今となってはこの声掛けすら物議を醸しそうですが、百歩譲って、指導しやすいという意味で使うことはありだとします。

 

性別カテゴリーの乱用の影響

例えば今日の○○は女の子でやりましょう!のように、男女で分けなくてもよいものについても、指導のしやすさを理由に男女カテゴリーを使用することがあります。

 

先生の間ではそれで問題はなかったとしても、子どもたちはどうでしょう。

 

無意識レベルで、男と女は違うものなんだという考え方が植え付けられていきます。

 

これに周りと違うことを注意される学校の体制が加わると、男女という二択では分けられないセクシャリティを持つ子供たちは、必然的にマイノリティになります。

 

学校においてマイノリティはいまだネガティブな意味を持つでしょう。

 

こうして、子どもたちの中に性役割感が育っていってしまうのです。

 

子どもたちとジェンダーを考える

子どもたちと話すとき、ジェンダーが何通りもあることを説明しているでしょうか。

 

子どもたちにとっての社会は、そのほとんどが学校と家庭です。

 

そこに所属する人々が、マイノリティを積極的に理解することなしに、子どもたちの常識は学校という組織体制に飲まれていくでしょう。

 

はっきりいってジェンダーについてはハード面の整備でどうにかできる問題ではないでしょう。

 

大人が、「当然」のなかにアップデートされたジェンダー意識を持てるかどうか、がし役割意識を変えるカギになると思います。

 

教えるのではなく、教えられるくらいの気持ちで。