差別について(前編,持論)
こんにちは、いったです。
今回はセンシティブな内容ですね。あまり触れないつもりでしたが、思うところがあったので書いてみます。
デジタル大辞泉によると
1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の
2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。
とあります。
一般的に差別といったら2の方の意味でしょう。
今回差別について考えたことは2つです。
1.内的な差別
2.差別の未来について
以下で1から順に述べていきますね。
1.内的差別
なんという言葉を使っていいかわからないので内的差別という言葉にしました。
簡単に言うと、いわゆる差別までいかなくても、心の中で感じてしまう感覚のようなものです。
「女の子っぽい悩みだな」とか「男勝り」とか「女々しい」みたいなものって基準に男女のステレオタイプがありますよね。
低く扱うという気持ちがなくても、受け取る側からすると差別的な目で見ていると思われても仕方ないんです。
ただ、これだんだん表意文字消えてくんじゃないかって気がしてます。
日本語のキャラクターって言ったらいいですかね。文字に含まれてる根本の意味みたいなものがあると、どんなに気を遣って言葉を選んでも言葉として見てもらえなくなりそうです。
2.差別の未来について
黒人差別デモで取り上げられていた男性の言葉に
俺には5歳の息子がいるが、未来は変わりそうにない
というものがありました。
十数年前のデモの時も、今も力で対抗している。
そして今のデモのやり方を見たら、今の若者たちもそうするだろう。それはやめてほしい。
そういった意味の言葉の中で発された一節です。
特に、未来は変わりそうにないという言葉がずしっと来ました。
正直、今ある差別の問題がなくなったとしても、差別自体がなくなるとは思えません。
気付いてしまうんです。
なにか他に私が傷ついているのではないかと探して、大きめの傷から順に見つけてしまうんです。
心理学的な感覚でいえば、セルフ精神分析とでもいえるでしょうか。
抑圧された感情を、自ら探し当てるような感じです。
たぶんそれって差別じゃないんでしょうけど、みんなが似たような体験していて、他に上手な言葉がないから差別になっているんだと思います。
ハラスメントとかも似たようなものかもしれません。
差別についての持論
言いたいことは、差別じゃないんだから騒ぐなではありません。
むしろそれだけ、世の中にだれかがアンフェアだと感じることが多かったのでしょう。
浮き彫りになることは悪いことではありません。
言いたいことは、目的論で考えませんか?ってことです。
どうすれば幸せなのか、を考えたいんです。
これがある限り不幸だ、ということもあるでしょう。でもこれがある限り、どういう感情になるから不幸なんでしょうか。
その”これ”を徹底的に叩くことは幸せにつながる行為なんでしょうか。
デモをしたり、何かに反対運動をしているときは団結感が生まれ、社会に高揚感が生まれるイメージがあります。
いま我々は幸せに向かって動いているのだという感じがします。
それは、相手が差別とか、病原体とかじゃないといけませんか?
もっと笑いてぇぇぇぇぇとかの行進じゃだめですか?
NHKの受信料なくせ!! じゃなくて
NHKこんな番組頼む!! こんなんが好きなんだ!!
ってほうがなんか素敵じゃないですか?
今のままじゃ5歳の子どもも、マイナスしか見ないまま育っちゃいますよ。
今のままで未来、変わりますかね?
私はゲラなんでたぶん死ぬまで笑っときます。
一緒に笑ってくれるひと、増えたらいいなと思います。